長年にわたる海外生活を終えて日本に帰ってきたヒッキーおばさんの相変わらずのヒッキー日記
勝手に応援させていただいている、琴人・飛田立史氏から、
写真をいただきました。
ご紹介させていただきます。
春節にあたり、写真を見せていただきました。
氏より
中国留学初めての国内長距離旅行。
1980年春節、長江下り。
陝西省西安市より鉄道で四川省重慶市に至る。
重慶市朝天門埠頭から乗船、白帝城、三峡、万県などをへて長江(揚子江)を武漢まで下る。
船内で一緒になった人民解放軍の女性兵士の皆さんと。
私が腕を回しているのは同じ北京語言学院のスリランカ人留学生ヘイワさん。
彼女たちにとってきっと人生初の外国人との交流であったことでしょう。
皆さんとうに退役されていると思いますが元気でいらっしゃるでしょうか。
当時、春節や夏休みなどの長期休暇の際に学校側が留学生向けに団体での国内旅行を組織していました。
北京発北京帰着、一週間余りの日程で参加は任意。旅の途中で旅行団からの離脱も自由にできました。
長江はその後何度か乗船地下船地を変えて下った経験があります。
別の機会ですが「板子1枚下は地獄」といった三等船室にも乗りました。
人いきれ、どこかの方言、獣のにおい、家禽の鳴き声に満ちた・・・空間。
こんな旅も好きです。
勝手に応援させていただいている、琴人・飛田立史氏から、
写真をいただきました。
ご紹介させていただきます。
氏から
後年、入手したレコードです。
時折りこのレコードを引っ張り出し、聴いてはあの時代の雰囲気を追体験しています。
1979年11月13日。
初めての北京での留学生活が始まってからわずか二か月足らず。
45年前、この日の夕べ私は北京市西城区月壇北街にある紅塔礼堂の客席にいました。
中国史上初の日本の音楽大学オーケストラによる訪中コンサートを聴くためです。
ひとつ印象に残っている風景があります。
中国人女性報幕(司会)の「日本東京音楽大学交響楽団、吹奏楽団訪華演出現在開始」の甲高い第一声で演奏会の幕が開きました。
一曲目は中国国歌である「義勇軍行進曲」演奏、次いで二曲目には日本の「君が代」演奏でした。
中国初の日本人音大生オーケストラによる「義勇軍行進曲」の冒頭トランペットの勇ましい演奏がはじまりました。
すると一階席人民解放軍の軍人と思われる軍服姿の一群をはじめ聴衆が席からすくっと立ちあがったのです。
中国国歌の演奏が終わると二呼吸ほどおいて次は厳かな「君が代」の演奏です。
軍人の方たちも引き続き直立したままでしたが座ろうにも座れないといった感情的に複雑な様子がその時の空気から感じられました。
そんな様子が後方からではありましたが二階席の前列に陣取っていた私からはよく見えたのです。
聴衆のなかには戦時中日本と戦った経験、被害を受けたことのある方もきっといらっしゃったことでしょう。
このレコードに収録された「義勇軍行進曲」演奏が始まったところを注意深く聴くと中国人聴衆が席から起立する音がわずかに入っているのに気づくはずです。
コンサートでは日中両国国歌のほか日中欧の新旧織り交ぜて計11曲が演奏されました。
演奏曲目のなかで強く印象に残っているのは水面に映る月影の描写という解説ばかりでなく童年時代を回顧するような美しい旋律を持つ「二泉映月」。
作曲家呉祖強氏編曲によるこの交響楽「二泉映月」はことのほか美しく聴こえました。
私の生まれて初めての「二泉映月」体験はオリジナルの二胡演奏によるものではなく日本のオーケストラによる管弦楽の演奏、それも生演奏だったのです。
本場の中国音楽には触れたこともなくNHKラジオ中国語講座のはじまりの音楽「北風吹」ぐらしか知らなかった当時の私。
レコードジャケット裏面「春の海」の中国語解説のなかで宮城道雄氏が日本箏演奏家ではなく古琴演奏家と紹介されているのはご愛敬でしょうか。
後年21世紀10年代になって東京音楽大学付属民族音楽研究所の公演で弾琴を披露させていただいたり「琴学」の社会人向け講座を担当させていただくことになるなど当時の私は知る由もありません。
この講座には元東京音楽大学学長でもあらせられた伊福部昭先生旧蔵の七絃琴をお借りして持ち込みました。※
きっと当時の北京でのこのご縁が今になって伏線回収されたのでしょう。
そんな気がしています。
ちなみに前年の1978年3月には小澤征爾氏率いるボストン交響楽団のコンサートがここ紅塔礼堂で行われています。
この時孫文の妻宋慶齢女史も病を押して臨席されています。
余談ですが1981年5月に逝去された宋慶齢女史、人民大会堂に安置された宋女史のご遺体に私は留学生のひとりとして告別の列に加えさせていただいたこともありました。
※東京音楽大学付属民族音楽研究所蔵。江戸時代。
~>゜)~<蛇足>~~
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今日8月11日は上海音楽学院時代の琴師林友仁先生のお誕生日です。
私の上海時代、林老師は50歳手前。夫人劉日新女史のご高齢のお母様もお元気でいらっしゃいましたし一人娘の林晨嬢はまだ中学生でした。
上海旧フランス租界域汾陽路20号のキャンパス内、私の宿舎楼から裏庭を隔ててすぐ北隣にあった平屋の老師ご自宅ではよくご飯をご馳走になりました。
後年、劉日新女史が亡くなられたとき駐在していた北京から上海での葬儀に駆けつけたことも悲しく思い出されます。
林晨嬢はその後琴の道に進まれ現在中国芸術研究院音楽研究所副研究員として琴学研究にご活躍されておりとても慰められる思いがします。
老師の授業は一対一。宿舎楼306号室私の自室に林老師をお迎えするのが常でした。
授業で広陵派の名曲「樵歌」や「普庵咒」「平沙落雁」などを弾いて聴かせて下さったり
老師が名付けた「管色泛音」という特殊な音色のハーモニクスを示範してくださったり
振り返ってみればなんと贅沢な時間だったことでしょう。
学院貸与の琴卓(桌)は老師一張私一張の計琴二張を置くにはさすがに小さすぎて不適でした。
そこで私がたまたま学院近く南昌路の道端で「持ってけ泥棒」の捨て値で売られていた中古の画案を見つけ琴卓兼勉強机として使うことにしました。
この「琴卓」は日本に持ち帰り今も山居に置いてあります。
あの時代、学院の楽器庫から明琴などの老琴を借り出すこともできたのでしたがどれも状態が悪かったので私は浙派琴家徐元白氏の作なる自前の民国琴を弾いていました。※1
宿舎楼二階にあった学院から私にあてがわれた練習室で林老師はじめ姚公白先生、呉(吴)自英先生ら琴家の方々とともに小さな琴会を何度か楽しみました。
呉自英先生は「平沙落雁」などを弾かれ、姚先生は「孤館遇神」など当時めったに聴くことのできない琴曲を弾いてくださいました。
琴会を終えたら…そうです、いつものように近くのレストランで楽しい会食です。
当時の琴会や林老師の琴室や蘇州在住の琴家呉兆基先生のご自宅など訪問時に撮影したビデオテープや写真はきっと貴重なものでしょう。
デジタル化して残しておこうと思います。
1938年生まれの林老師。まだまだお元気でいていただきたかったです。
琴に対しての深い愛情と理解、そして確固たる矜持をお持ちだった老師。
時にユーモアにあふれそして物事の本質を突いた老師のお話しも好きでした。
この夕べには林老師を想い静かに弾琴したいと思います。
※1 『今虞琴刊』今虞琴社編 1937年 「琴人問通訊録」徐元白の項(P261)に記載されている「徐氏式」または「倣唐式」とある中の一張か。