長年にわたる海外生活を終えて日本に帰ってきたヒッキーおばさんの相変わらずのヒッキー日記
氏より
北京留学当時の80年代、外国人が訪問するのに許可がいる都市に行くには「外国人旅行証」を取得、携帯する必要がありました。
旅行証の取得には北京では故宮「護城河」の東側「南池子大街」なかほどの伝統的家屋「四合院」の一角にあった「北京市公安局外事科」に行って申請をします。
訪問したい都市を申請書に記入して窓口に提出、認められれば訪問を許可された都市名が記入された旅行証が後日発行されます。たしか申請費用は人民元ひと桁ほどと高額ではなかったと思います。
また旅行先では現地の公安局に行って新たに訪問したい都市名を書き加えてもらうことも可能でした。ただそれはその土地の公安局によって対応が異なり追加の可不可はその時の運次第だったように思います。
こんなこともありました。
80年代初め、中国古代の都城跡を実際に見てみたいと河北省邯鄲を訪ねた時のこと。
邯鄲は戦国の七雄の一つ「趙」(BC403年 - BC228年)の首都で唐代の故事「邯鄲の夢」※で知られています。また秦の始皇帝が生まれたところでもあります。
北京と広州を南北に結ぶ大動脈京広線。その邯鄲駅で列車を降りると出口改札のところで駅員に足止めされました。駅から連絡がいったのでしょうしばらくすると二人の公安局職員が乗ったパトカーがお迎えにきました。
そのままパトカーに乗せられ丁重に公安局の招待所へと案内されました。パスポートや学生証を確認された以外になんら取り調べを受けることなどもなく招待所に一泊。明けて次の日にはなんとご親切にもありがたいことに戦国時代の趙の都城「趙王城」や趙の武霊王が閲兵台として築かせたという「武霊叢台」などの遺跡を公安局の車でぐるりと案内をしてくれたのです。
公安職員の手前遺跡では足元の地面に戦国時代の瓦当などが転がっていても手に取って観察することは控えました。今思えばちょっと気にしすぎだったかもしれませんね。
記憶を手繰り寄せてみたのですが宿泊代、車代など費用を支払った記憶がありません。
きっと彼らの職責として訪問外国人の身に何かあってはいけないということでもあったのでしょうか。
そのあと彼らと別れ北斉時代(550年~577年)に開鑿された「響堂山石窟」へと向かいました。
とにかく体力知力方向感覚、ガッツと機転、それと時の運が必要な当時の中国個人旅行ではこれ以外にも思い出に残ることが数々ありました。いつの日かいまだに段ボールに入れたまま放置してある写真の山から数枚引っ張り出してそんなことあんなことをどこかでお話しすることもあるでしょう。
北京、上海などの大都市はともかく地方について手に入る詳細な旅行情報も限られた時代でした。各地の名所旧跡もほとんど整備されていないところもまだまだ数多くあり、そのことで却って昔日の姿を今より容易に想像して楽しむことが出来たように思います。
当時と異なりインターネットなどで世界中の情報をいながらにして簡単に知ることのできる現在、過去に訪れたことのある数々の都市、名所旧跡の現在の姿、その劇的変化を知るたびわたしは当時の風景を思い出しおもわず遠い目になってしまうのです。
さて山居まわりの草刈り作業に疲れた今日一日。今夜は「邯鄲の夢」よろしく試しに青磁枕の穴でも覗いてみましょうかね。ちょっと怖いですけれど・・・。
※「邯鄲の夢」:唐代の伝奇小説『枕中記』(ちんちゅうき) 沈既済(しんきせい)著より
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