長年にわたる海外生活を終えて日本に帰ってきたヒッキーおばさんの相変わらずのヒッキー日記
今日8月11日は上海音楽学院時代の琴師林友仁先生のお誕生日です。
私の上海時代、林老師は50歳手前。夫人劉日新女史のご高齢のお母様もお元気でいらっしゃいましたし一人娘の林晨嬢はまだ中学生でした。
上海旧フランス租界域汾陽路20号のキャンパス内、私の宿舎楼から裏庭を隔ててすぐ北隣にあった平屋の老師ご自宅ではよくご飯をご馳走になりました。
後年、劉日新女史が亡くなられたとき駐在していた北京から上海での葬儀に駆けつけたことも悲しく思い出されます。
林晨嬢はその後琴の道に進まれ現在中国芸術研究院音楽研究所副研究員として琴学研究にご活躍されておりとても慰められる思いがします。
老師の授業は一対一。宿舎楼306号室私の自室に林老師をお迎えするのが常でした。
授業で広陵派の名曲「樵歌」や「普庵咒」「平沙落雁」などを弾いて聴かせて下さったり
老師が名付けた「管色泛音」という特殊な音色のハーモニクスを示範してくださったり
振り返ってみればなんと贅沢な時間だったことでしょう。
学院貸与の琴卓(桌)は老師一張私一張の計琴二張を置くにはさすがに小さすぎて不適でした。
そこで私がたまたま学院近く南昌路の道端で「持ってけ泥棒」の捨て値で売られていた中古の画案を見つけ琴卓兼勉強机として使うことにしました。
この「琴卓」は日本に持ち帰り今も山居に置いてあります。
あの時代、学院の楽器庫から明琴などの老琴を借り出すこともできたのでしたがどれも状態が悪かったので私は浙派琴家徐元白氏の作なる自前の民国琴を弾いていました。※1
宿舎楼二階にあった学院から私にあてがわれた練習室で林老師はじめ姚公白先生、呉(吴)自英先生ら琴家の方々とともに小さな琴会を何度か楽しみました。
呉自英先生は「平沙落雁」などを弾かれ、姚先生は「孤館遇神」など当時めったに聴くことのできない琴曲を弾いてくださいました。
琴会を終えたら…そうです、いつものように近くのレストランで楽しい会食です。
当時の琴会や林老師の琴室や蘇州在住の琴家呉兆基先生のご自宅など訪問時に撮影したビデオテープや写真はきっと貴重なものでしょう。
デジタル化して残しておこうと思います。
1938年生まれの林老師。まだまだお元気でいていただきたかったです。
琴に対しての深い愛情と理解、そして確固たる矜持をお持ちだった老師。
時にユーモアにあふれそして物事の本質を突いた老師のお話しも好きでした。
この夕べには林老師を想い静かに弾琴したいと思います。
※1 『今虞琴刊』今虞琴社編 1937年 「琴人問通訊録」徐元白の項(P261)に記載されている「徐氏式」または「倣唐式」とある中の一張か。
崇禎17年3月19日(1644年4月25日)
李自成の反乱軍によりこの日北京は陥落。
これにて明王朝が滅亡する。
紫禁城(故宮)北門「神武門」前にセダン「上海」やバス、小型トラック(いずれも当時の代表的国産車)が駐車しているのが望めます。
大学時代、中国史専攻科の「班主任」(クラス担当の教師)は王天有先生(1944-2012)でいらっしゃいました。
明史の研究者であられた王先生。先生のお生まれになった年は奇しくも明朝滅亡からちょうど300年目だったのですね。
三春藩領には室町期の画僧雪村周継が最晩年暮らした庵があります。
わたしも雪村さまの画をとても愛する者のひとりです。
そして大好きな数々の画を描いてくださったことに感謝し庵裏にある雪村さまの墓といわれる石に手を合わせるのです。
余談ですが…
母方祖母の先祖は雪村庵から丘を二つほど隔てたところに住していました。
もし先祖が竹林の古径で雪村さまとすれ違ったとか、庵に雪村さまをお訪ねして楽しく語らった…なんてことがあったとしたら…などと大それたことを想像してはひとりで喜んでいます。
また母方祖父の先祖は樹齢千年三春の「滝桜」からそんなに遠くない村で数百年暮らしていました。(現在、三春ダムの底)
春爛漫のこの季節、雪村桜も滝桜も町中の桜も満面の笑みで訪れる多くの旅人を歓迎してくださることでしょう。
ここ山居の梅林も八分咲き、桜の蕾も膨らみ始めました。
鄙の山里にも春到来、田畑も目覚めの季節です。
北の林では「チョットコイ、チョットコイ」と小綬鶏が呼んでいます。
さあて今日も農作業のお手伝いに出かけましょう。