長年にわたる海外生活を終えて日本に帰ってきたヒッキーおばさんの相変わらずのヒッキー日記
懐かしい大好きな北京の雪景色。
今は阿武隈の山里住まい。気温が零下まで冷え込むと北京の冬景色が自然と思い起こされます。
北京の冬の名物料理、味覚といえばわたしもやはり王府井東風市場内、「東来順」の「涮羊肉」(羊のしゃぶしゃぶ)、前門外糧食街にある漬物の名店「六必居」の「糖蒜」(ニンニクの甘酢漬け)…。
あの頃、冬になると街中でも北京人の胃袋に収まるべく長城を越えて歩いてきたという羊の群れを朝早くに見かけることもありました。
「北京烤鴨」(北京ダック)はお世話になった斫琴家の前門外大蒋家胡同にあったお住まいからそう遠くない「便宜坊」のものがわたしの好みでした。
胡同を行き来する人々の流れをガラス窓越しに眺めながら…「老北京」の「北京土話」の響きを耳にしながら…かぶりつく烤鴨。
在りし日の老店舗、その庶民的たたずまいも懐かしく思い出されます。
ちょっと「清明上河図」的な…。
この秋、福島県立博物館で開催された企画展に出展されていた「清明上河図」(明・万暦五年 1577年 趙浙模本 林原美術館蔵。重要文化財)を拝観してきました。
画中に描かれた店舗の壁には売り物の琴、箏,阮咸などの楽器が掛けられていたり、人々でごったがえす橋の上では露店商と思われる人物がこちらは青銅器など売り物の骨董品を広げていたり…と。
その露店商が並べた売り物のなかに嬉しいことに琴がありました。お客さんでしょうかその琴を指さして何かを話しているひとりの人物がいました。
「彼はもしかしてわたし自身だったのかも知れない」と彼へ親近感を覚えました。
「琴痴」の面目躍如といったところです。
大学時代受講した中国古代文学の講義、「西南連合大学」ご出身という担当教授の「綿襖」(綿入れ)姿があまりにも素敵でいらっしゃいました。
わたしも冷え込む冬の日、外出時には「綿襖」を纏ったこの服装をよくしていました。
当時街中でもあまり見かけることのなかったダウンジャケット姿とは違いこのいでたちのほうが注目を浴びないので街歩きが楽だったのです。
それにしても伝統的「布靴」ではなく日本から持ってきていた運動靴を履いているのはまったくのちぐはぐですね。
大柵欄の「内联陞」靴店で買い求めた刺し子底や革底の布靴は特別の機会に履くことにしてとても大切にしていました。
紫禁城北東隅、城壁上に建つ「角楼」が遠くに微かに見えています。
大雪、冷え込む日が続きます。みなさま暖かくしてどうぞ良いお年をお迎えください。
注) 斫琴家:琴を作る職人
虫の知らせだったのでしょう。
北京の琴友から 田双琨先生逝去との訃報を受け取りました。
そう、上記「斫琴家」とはこの田双琨師傅のことです。
80年代前半、北京には作琴、修琴の職人がお二人おられました。
田師傅はそのうちのおひとりです。
そのころ田師傅は前門外繁華街の喧騒からちょっとだけ離れた四合院、その大門を入ってすぐ横「倒座房」と呼ばれる一室に一人でお住まいでした。
(もうおひとりは崇文門外大街から前門方面に少し入った胡同にお住まいだった孫慶堂師傅。胡同名失念)
琴師王迪先生の紹介でわたしが初めて購入した銘「宇宙正音」琴(1950年代の作)は田師傅に修理していただいたものです。
大先生管平湖の旧居を教えてくださったのも田師傅でした。
柔和な表情、河北省訛の穏やかなしゃべり口、優しいお声。
師傅の後半生は多くのお弟子さんにも恵まれとても幸せでいらっしゃったと思います。
師傅のご冥福をここ日本の山里より遥かにお祈り申し上げます。
田双琨師傅 一路走好!
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飛田立史 2022.12.22 追記
懐かしい写真が出てきました。
当時ご母堂は健在でいらっしゃいましたしご長女の紅雨嬢はまだおさげ髪の小学生でした。
先生にお供して琴を抱いて近くの清涼山公園を散策したり、愛蔵の「秋籟」、「忘憂」(明 万暦年間 1573-1620 張季修製)琴の拓本を取ったり…。
夕べには先生宅一室に数人が集い琴会が開かれたり…。
上海音楽学院時代南京には幾度か通いました。往時を思い起こすと胸が熱くなります。
「文王操」の打譜を完成されたとのことで成先生からいただいた譜です。
1993年、先生の黄翔鵬先生(文学芸術研究院音楽研究所元所長)宅拝訪の折、北京の拙宅に数日滞在されました。むろん「秋籟」もご一緒です。
この機会に合わせて北京西長安街の書店「三味書屋」二階にて小規模な演奏会が開かれました。
わたしも前座として出演しました。
勝手に応援させていただいている、琴人・飛田立史氏から、
写真をいただきました。
ご紹介させていただきます。
1970年代末期の中国をお楽しみください。
今回は、敦煌です。
敦煌は90年代にかけて何度か訪ねています。
もちろん敦煌県城より南西に70キロほど離れた陽関にも足を運んでいます。
わたしの使っている「琴薦」(弾琴時、琴卓上に琴頭下と雁足下の二か所に敷くいわゆるお座布団)には陽関の峰火台下で採取した砂漠の砂が入っています。
ちょうどシルクロード音楽の調査中でいらした小泉文夫先生(民族音楽学者 1927-1983)と莫高窟と敦煌県城を結ぶ敦煌文物研究所職員用のシャトルバスにご一緒したこともありました。わたしは高校時代、NHK-FM放送で朝方放送されていましたラジオ番組『世界の民族音楽』を愛聴していました。そんなわたしにとって初めてそれも莫高窟という場所で先生にお会いできたのは感激の出来事でした。
また後年、日本人考古学者のお供で常書鴻先生(敦煌文物研究所名誉所長 1904-1994)、李承仙ご夫妻を北京木犀地のご自宅にお訪ねしたこともありました。そのときの記念写真はわたしの宝物のひとつとなっています。
当時、宿は県城内の人民政府招待所か一般の旅社などにとっていましたが莫高窟にある敦煌文物研究所の招待所に滞在したこともありました。
色彩豊かな数々の石窟群は言うに及ばず莫高窟を照らす清々しい朝陽、砂漠の強烈な日差しを防ぐオアシスの涼しげに揺らぐ木漏れ日。そして窟背後の鳴沙山東麓に沈みゆく赤く巨大な夕陽、幽かに瞬く満天の星々などなど十二分に堪能できました。加えて研究所職員食堂のマントウとスープに漬物だけといったきわめて質素な食事も記憶に残っています。
そういえば研究所招待所に滞在したときに壁画の模写に北京から来ていた中央美術学院の教師、学生さんたちから「龍子太郎」というありがたい?あだ名をいただいたことなども何とはなしに懐かしく思い出されます。彼ら日本のアニメーション映画『龍の子太郎』(東映動画 1979年公開 原題 『Taro,the Dragon Boy』 中国題『龍子太郎』)を観たことがあったようです。
余談ですが今年8月に米寿を迎える父は53歳のときに脳梗塞で倒れました。長い間言葉がうまく出なかったのですが中国に団体旅行中、陽関に至ったとき「西のかた陽関を出ずれば故人無からん。故人無からん。」(盛唐の詩人王維『送元二使安西』の一句)とまとまった言葉が父の口から初めて出たと母から聞いています。